ミナミまち物語 シネマ・ヒストリー

ミナミまち物語 シネマ・ヒストリー

『日本映画のふるさと ミナミ 』 3.映画黎明期、ミナミの撮影地

稲畑勝太郎によってシネマトグラフがフランスから
導入されたとき、コンスタン・ジレルというリュミエール商会の撮影・映写技師が随行していました。
ジレルはシネマトグラフを使って、
各地で「明治の日本」を活写しました。
映画黎明期はこのように
風景や人物の実写映像ばかりです。

ジレルが屋外で最初に撮影したのが
ミナミの心斎橋筋だったといわれています。
おそらく、来日早々の明治30(1897)年の
2月ごろと思われます。
通りの四辻で、見たこともない装置を
西洋人が操っていたので、
警察官が出動して大騒ぎになったそうです。
それが大阪を最初に捉えた映像。
しかしフランスへ送ったフィルムが感光しており、
〈幻の映像〉と相成りました。

現存する最古の「大阪映画」もミナミが撮影地でした。
その年の5月27日、道頓堀川に架かる
相合橋のたもとにあった南地花遊園で、
上方歌舞伎の初世中村雁治郎、市川右団治らの
所作事をジレルがフィルムに収めました。
一連の映像は『日本の俳優:男の踊り』、
『日本の芝居の一場面』などの題名がつけられ、
東京国立近代美術館フィルムセンターの展示室で
常時、上映されています。

やがて映画黎明期の映像は「活動写真」として
全国的に普及し、明治36(1903)年以降、
京都と東京で設立された映画製作会社で
ドラマが作られるようになりました。
しかし当時は時代劇が主流とあって、
撮影所内や寺院、田園地帯でのロケ撮影ばかりで、
街中でカメラが回されることはまずありませんでした。
当然、ミナミでのロケ撮影も行われなかったと
思われます。

大正期に入ると、現代劇が製作され、
街中でのロケ撮影が始まりました。
ミナミでは、大正13(1924)年、
大阪の映画製作会社、帝国キネマ演芸(帝キネ)の
大ヒット作『籠の鳥』のワンシーンが千日前にあった
芦辺劇場前で撮影されました。
昭和期にはかなりミナミで撮影が行われていたと
思われます。

【プロフィール】
武部好伸 (タケベヨシノブ)
エッセイスト。1954年 大阪市生まれ。大阪大学文学部美学科卒業。元読売新聞大阪本社記者。
映画、ケルト文化、洋酒をテーマに執筆活動に励む。日本経済新聞、その他多くのメディアに映画評、映画エッセーを寄稿。
日本ペンクラブ会員、関西大学社会学部非常勤講師。
著書に『大阪「映画」事始め』(彩流社)、『ぜんぶ大阪の映画やねん』(平凡社)、『ウイスキーアンド シネマ 琥珀色の名脇役たち』(淡交社)、『ウイスキー アンド シネマ 2 心も酔わせる名優たち』(同)、「ケルト」紀行シリーズ全10巻(彩流社)など多数。
武部好伸公式Blog/酒と映画と旅の日々
http://www.takebeyoshinobu.com

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