『日本映画のふるさと ミナミ 』
5. 大阪・ミナミ〜新世界の映画館の隆盛とまちなみ形成
ミナミは道頓堀の芝居小屋・五座が立ち並ぶ江戸時代以来の景観から、現代映像文化の殿堂・映画館建築と看板が内外の作品を発信する近代都市の景観へと変化していった。戦前の大大阪時代から戦後の復興期にかけて、ミナミ~新世界は、大阪で最も映画館が多数立地していた。1950年代の大阪市内映画館300館のうち、ミナミ30館、新世界13館、梅田25館、天王寺8館、上六4館等である。映画史研究家・レトログラフィック資料コレクターの南 昭弘氏が1950年代の映画館のリスト(時事通信映画年鑑)と当時の住宅地図を照合して検証した。
映画と映画館の歴史・時代の変化のなかでの、ミナミ~新世界の主要館
1.サイレント映画時代
1-1.1890年~1900年代
1899年フィラデルフィアで開催された博覧会において、映画を上映するパルテノン風建築のシネオグラフ館が公開された。これが世界初の映画館である。
そののち、5セント硬貨で入場できる、庶民的な規模の小さい映画館・ニッケルオデオンがアメリカ合衆国で普及した。規模は、席数が300名程度、平均的なサイズは横7.5メートル、奥行き30メートル程度。座席は基本的に木製で初期においては映写室も分けられておらず、設備は伴奏用のピアノ、映写機1台程度であった。
1891年(明治24年) アメリカのエジソンが一人観賞用(映写機)キネトスコープを発明
1894年(明治27年)3月 フランスのリュミエール兄弟が、撮影機と映写機との複合機・シネマトグラフを開発し、1895年12月28日にパリで一般公
1896年11月 神戸の銃砲商・高橋信治が入手したキネトスコープが神港倶楽部で実験
同年12月 心斎橋の輸入線維商・荒木和一が輸入したエジソン社製映写機・ヴァイタスコープが大阪・難波の福岡鉄工所で初上映される。
1987年2月、京都の実業家・稲畑勝太郎が持ち帰ったシネマトグラフの試写を京都電燈株式会社(現在の元・立誠小学校)で行い、2月15日大阪・難波の南地演舞場で初めて有料上映を行う。2月22日、ヴァイタスコープが新町演舞場で一般公開に供された。
1899年(明治32年)6月 東京歌舞伎座でわが国初の実写映画の公開。
1899年(明治32年)9月 関東各地を荒らしたピストル強盗逮捕を横山運平主演で柴田常吉が撮影した「稲妻強盗/清水定吉」が公開される。
1903年(明治36年)10月 吉沢商店が浅草に日本最初の映画専門館「電気館」を設置。
1909年(明治42年) 尾上松之助が主演した『碁盤忠信』が大ヒットとなり、「目玉の松ちゃん」として日本最初のスターが誕生した。
1-2.1910年代
1912年(大正元年)9月、日本初の本格的な映画製作会社・日本活動写真株式会社、略称日活が発足した。東京向島の向島撮影所、京都二条城西櫓下の関西撮影所の2箇所の撮影所を設け、東京では新派(後の現代劇)を、京都では旧劇(後の時代劇)を製作した。
アメリカでは、映画都市・ハリウッドが形成され始める。グリフィスが、『國民の創生』(1915年)、『イントレランス』(1916年)、『散り行く花』(1919年)等を製作。欧州では『ファントマ』シリーズや『吸血ギャング団』シリーズ(いずれもフランス)などの連続活劇が流行した。第一次世界大戦が終結し、ハリウッドの映画会社が続々と日本へと進出してきた。一方、1920年には松竹キネマ合名会社が設立され、製作に乗り出した。松竹の俳優養成所はハリウッドのスター・システムを採用した。
○アシベ劇場(千日前)(1)元は芦邊倶楽部と称した3棟からなる演芸場と映画館、娯楽場。1914年に映画館に転換した。その後大映封切館になる。
2.現代映画 (トーキー)
2-1.1920年代
1927年 アメリカで世界初のトーキー『ジャズ・シンガー』(アラン・クロスランド監督)公開。トーキーは世界的に受け入れられ、急速に普及した。
1929年 アメリカでアカデミー賞が始まる。
1923年の関東大震災で、現代劇映画を製作していた東京の撮影所が壊滅し、旧劇の中心地・京都での撮影が主になる。
1924年 京都・太秦村に「日活太秦撮影所」(後の大映京都撮影所)が開設される。
○道頓堀 松竹座(1923年)(2)鉄骨鉄筋コンクリート建て、ネオ・ルネッサンス様式の近代的な大劇場として収容人員1141名の威容を誇った。洋画の封切館としては1994年に閉館し、1997年に外観を残して新築され、歌舞伎・演劇の劇場として開場した。
2-2.1930年代
トーキーの時代が本格的に到来し、音楽や効果音が生かせることからミュージカル映画やギャング映画が映画の主流となる。無声映画時代が終了しても外国映画の解説役として存続していた弁士も、1931年『モロッコ』ではじめて採用された字幕スーパーの登場により、不要な存在となった。1935年にはトーキーに完全に移行を成し遂げるが、財政的に移行の難しい独立プロは1938年ごろまで無声映画を撮り続けた。小スタジオは続々と大手映画会社へ吸収されていく。
○道頓堀 朝日座(1930年)(3)朝日座は江戸時代から続いた道頓堀の芝居小屋・五座のひとつ。1911年に福宝堂の上映館となり、1913年からは日活の封切館として引き継がれた。1921年、日活との契約期間が切れて松竹キネマの映画館となった。1945年に空襲で焼失。1955年、跡地に大阪東映劇場が新築開館、のちに道頓堀東映と改称したが2007年に閉館した。
○道頓堀 弁天座(1931年)(4)道頓堀五座のひとつ。1920年に松竹キネマの上映館となり、1930年から帝国キネマの封切館となった。1945年、空襲で焼失。1956年、人形浄瑠璃の劇場 道頓堀文楽座として新築開場した。
○新世界 公楽座(1931年)(5)ルナパーク演芸が所有する公楽座は、1931年7月4日開館。鉄骨鉄筋コンクリート建ての地上3階、地下1階で、定員1200余名。当初はパラマウント社直営で。2006年の閉館時は、邦画の名画座 新世界公楽劇場という名称だった。
○千日前 東洋劇場(1933年)大阪劇場(1934年)(6)千日土地建物の経営で主に外国映画上映館として開館。鉄骨鉄筋コンクリートの歴史主義建築物で収容人員2780名を誇り、東洋一の映画殿堂と謳われた。開館上映作品はアメリカ・ユニヴァーサル映画。東洋劇場は外国映画の封切館としては興行成績が振るわず、1934年より大阪劇場と改称、経営も松竹の手に移り大阪松竹少女歌劇団(OSSK)のレビューを中心に松竹映画の封切という番組編成になった。1967年閉館した。
○千日前 敷島倶楽部(1935年)(7)1911年に芝居の劇場として開場した敷島倶楽部はその後洋画の封切館となった。この時期の定員は749名。場所は千日通を隔てた大阪劇場と常盤座の向かい側にあった。のちに東宝敷島劇場と名を変え、1956年の改築の際に敷島シネマとの2館になるが、1999年に閉館。現在はTOHOシネマズなんば 別館となっている。
○千日前 常盤座(1935年)(8)常盤座は1909年に演劇の劇場として開場。その後改築・改装を経て1913年から日活の封切館となり尾上松之助映画の上映館として親しまれた。掲載写真には「日活映画関西封切場」の看板が見え、この時期は1000名を超す収容人員があった。奥に見えるのが大阪劇場。1956年に閉館。
○新世界 パーク劇場 パークキネマ(1935年)(9)1925年の「ルナパーク」閉園後、同年12月に園内の劇場 清華殿を引き継いで東亜キネマの封切館となったのがパーク劇場(左手)。パークキネマ(右手)は同年3月、「ルナパーク」の演技館を再利用した洋画封切館。
○千日前 弥生座(1938年)(10)レビュー劇団や新派劇を中心とした劇場から、1937年、ニュース映画専門館に転向。2004年の閉館まで、千日前弥生座として興行を続けた。
○千日前 アシベニュースハウス(1938年)(11)芦辺劇場の南側に1937年開館した定員200余名のニュース映画専門館。洋食レストラン「アシベ食堂」を改築して映画館としたため馬蹄形の変わった構造になっていた。芦辺劇場は元 芦辺倶楽部と称した由緒ある劇場で、映画興行も盛んに行い、帝キネの封切館になったこともある。アシベニュースハウスは、戦後アシベ小劇場と改称した。
○なんば 南街映画劇場(1938年)(12)南街映画劇場は、南海電鉄なんば駅前の戎橋筋に、1938年1月東宝系映画館として開館。近代的な大型ビルの予定だったが、非常時建築制限令のため木造で定員668名の規模になった。写真の上映作品は『エノケンの猿飛佐助』前後篇(岡田敬監督)。1953年には4劇場からなる「南街会館」が建設され、キタの「梅田東宝会館」と並ぶミナミの東宝系複合劇場として栄えたが、老朽化のため2004年閉鎖。現在ここには「南街東宝ビル」(なんばマルイ)が建ち、シネコン「TOHOシネマズなんば」がある。なお、もともとこの場所には、1897年に日本で初めてシネマトグラフが公開された「南地演舞場」があった。
○心斎橋松竹(1939年)(13)心斎橋松竹は、大阪有数の繁華街・心斎橋筋の十合百貨店(現大丸心斎橋店)の北隣に1939年2月に開館した松竹系の映画館。定員230余名の小劇場。1941年には、当時アメリカに次ぐ世界第2位の製作数である年間500本を超える映画を製作していた日本映画界だが、1945年には僅か26本の製作となってしまった。
○道頓堀名画劇場(1942年)(14)1941年、道頓堀川に掛かる太左衛門橋の南西詰にあったカフェー赤玉が映画館に転向して松竹直営の道頓堀映画劇場となり、その後道頓堀名画劇場と改称した。第二次世界大戦中の1930年代から1940年代にかけてのアメリカには著名な多くの映画監督が世界中から集まっていた。映画製作本数も年間400本を超え、質量共にアメリカは世界の映画界の頂点にあった。このことにより、1930年代~1940年代は「ハリウッド全盛期」、「アメリカ映画の黄金時代」と呼ばれている。1946年、フランスでカンヌ国際映画祭が始まる。
2-4.1950年代
テレビ放送始まる。
テレビの普及による観客動員数の減少に頭を悩ませたアメリカ映画界は、テレビでは実現できないことを目指し画面サイズの拡大や大作主義に手を伸ばし始める。特に大作主義は一時のハリウッドを席巻した。1951年、ドイツでベルリン国際映画祭が始まる。1950年代は日本映画の国際的評価が高まった時期。1951年に黒澤明の『羅生門』や『七人の侍』、溝口健二の『西鶴一代女』、『雨月物語』、『山椒大夫』、衣笠貞之助の『地獄門』など、国際映画祭を総なめに受賞している。 1954年日本でゴジラが公開。東宝が生み出した日本初の怪獣映画である。東宝、松竹、日活、大映に加え、急速な発展を見せた東映が主体となって映画の量産時代が到来した。
○千日前国際シネマ(15)がオープン。隣接していた 南地劇場と統合し、1956年(昭和31年)12月31日、日活系映画館・千日前国際日活と名画座・国際地下劇場の2館を増設。その後国際シネマは東映系、松竹系と変遷した。
○新世界国際劇場 1930(昭和5)年(16)にオープンの芝居小屋「南陽演舞場」が、1950(昭和25)年にリニューアルされて現在のような映画館になった。設計は、三木楽器本店を設計した増田清である。
2-5.1960年代
フランスのヌーヴェルヴァーグ、アメリカン・ニューシネマなど新しい映画運動が起こる。
1961年に日本において芸術系映画の配給を目的として日本アート・シアター・ギルド(ATG)が設立される。
2-6.1970年代
1976年(昭和51年)、映画ファンのための映画まつり「おおさか映画祭」開催。2006年(平成18年)から「おおさかシネマフェスティバル」と改称。
2-7.1980年代
ミニシアターブームが興る。ミナミでは、ビッグステップのシネマート心斎橋(17)、国名小劇などが開館した。また、「東京国際映画祭」、「山形国際ドキュメンタリー映画祭」等の映画祭が取り組まれる。
2-8.1990年代
1990年代はシネマコンプレックスの定着によって、長らく減少傾向にあった映画館数が増加に転じた。ゲーム、漫画、アニメなどと連動した映画作品が増加した。また、製作委員会方式によるリスク分散の手法が一般化し、テレビ製作会社の映画事業への参入が増えた。映画館の単体建築の時代は終了し、大型商業施設の中のシネマコンプレックスとなる。
2-9.2000年代
『大阪ミナミ映画祭』が始まる。2005年に精華小劇場(旧精華小学校)を会場に、SRA主催で「大阪ミナミ精華映画祭」として始まった。その後「道頓堀 角座」を会場に加え、「ウインズ道頓堀」「道頓堀 今井」、「TORII HALL」「サテライト大阪」「法善寺境内(庫裡)」での上映も行われた。
1993年、日本で初めてシネマコンプレックスがオープンする。
2005年~大阪アジアン映画祭
○TOHOシネマズなんば・本館開館(2006年~)(18)
○「なんばパークスシネマ」(なんばパークス内のシネマコンプレックス)(2007年~)(19)
『建築デザインの流行から見た大阪ミナミの〝娯楽の殿堂〟映画館』
・初期の映画館は、アメリカでいみじくも「ニッケル・オデオン」と呼ばれたように、ヨーロッパのオペラ座・歌劇場・オデオンに外観を模して造られた とみられる。映画館建築は、列柱(オーダー)・梁・まぐさ(エンタブラチュア)・破風(ペディメント)などの過去の建築様式を復古的に用いて設計された19世紀の欧米の歴史主義劇場建築を、やや商業的に誇張してデザインされた感がある。風格やハイカラ感が重視されたのではないだろうか。日本では、その流れが1930年代半ばまで続く。
・ミナミで盛んに映画館が建てられた1930年代半ば以降~1940年代にかけては、アールデコ~モダニズム建築の時代 の影響を受けた、ハイカラなアメリカンモダンの映画館も散見される。新世界国際劇場、なんば南街映画劇場などが、その好例である。
・大大阪時代から戦後の復興期の、ネオンサイン華やかで繁華街の活気を今に伝えている。
・世界的な郊外型シネプレックスの流行の中で、ミナミの映画館も、独立型単館から大型商業施設に複合化が進んでいる。